A君解雇後に訪れた、静かな崩壊の始まり
A君が解雇になった後、社長さんは明らかに元気をなくしていった。
まるで魂の一部が抜け落ちたような、そんな表情をしていた。
理由ははっきりしていた。
社長さんにとってA君は、言葉は悪いが「忠犬」のような存在だったのだと思う。
どんなに叱っても、どんなに理不尽なことを言っても、黙ってついてくる。
社長の価値観を疑わず、反論せず、絶対に離れない存在。
そのA君が、窃盗事件という最悪の形でいなくなった。
事件の影響は大きかった。
まず、進行中だった約1000万円規模の案件が白紙になった。
会社としても痛手だったが、それ以上に、社長さんの落胆の理由が「案件」ではなく、「A君がいなくなったこと」であるのが、日に日に明確になっていった。
社長さんは、A君を残そうと必死だった。
事件後も「財布を持ち上げただけだ」「現金は盗んでいない」と、周囲の社員を説得しようとしていた。
その姿を見て、現場の士気は一気に下がった。
「俺も、もう辞めようかな」
そんな言葉を口にする社員も出始めた。
自分は管理職という立場もあり、
「こういう時こそ、会社を支えないとダメだよ」
そう声をかけ、必死に踏みとどまらせようとしていた。
だが、どれだけフォローしても、どれだけ前向きな言葉をかけても、空気は重くなる一方だった。
社長さんの心が、完全にA君の喪失に囚われていたからだ。
そんな状況でも、仕事は待ってくれない。
建設業界特有の慢性的な人材不足は、この頃から一層深刻になっていった。
ハローワーク、無料の求人媒体、あらゆる手段を使っても、問い合わせは年に数回あるかどうか。
これでは、いくら仕事を受注しても、回す人間がいない。
売上を伸ばす以前の問題だった。
そして、この時期から顕著になっていったのが、社内で密かに呼ばれていた「説教タイム」だった。
工事の人間は、朝6時集合。
都内などで一日中現場を回り、帰社するのは19時前後。
そこから翌日の準備をし、やっと帰れると思った矢先に、社長の部屋に呼ばれる。
内容は、仕事のミス、態度、気に入らなかった言動。
その日のうちに言わないと気が済まないらしく、説教は長時間に及んだ。
遅い人では、22時頃まで解放されないこともあった。
疲労困憊の状態で、そこから帰宅する。
自分は、その光景を健全だとはどうしても思えなかった。
だから、時には社長の部屋に入っていき、
「もう遅い。今日はここまでにして、早く帰らせてください」
とはっきり伝えることもあった。
だが、
「いや、まだこいつには話すことがある」
そう言われ、残される社員もいた。
気がつけば、社長の部屋の前には「説教待ち」の列ができていた。
それは社員だけではない。
外注の作業員でさえ、順番を待たされることがあった。
この光景を見たとき、はっきりと理解した。
人が定着しない理由は、給料や仕事量だけではない。
この空気、この構造そのものが、人を疲弊させていたのだ。
A君の解雇は、ひとつの事件に過ぎなかった。
だが、それをきっかけに、会社の歪みが一気に表面化していった。
静かに、しかし確実に。
会社は、崩れ始めていた。

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