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起業物語Re11 生い立ち

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筑波大学・体育専門学群への挑戦──成績50%からセンター試験へ

バスケットボールに青春を捧げた高校生活が終わり、次なる目標として自分が掲げたのは、筑波大学・体育専門学群だった。
茨城にあるこの国立大学は、関東1部リーグで唯一の国立校として、全国のスポーツマンから注目を集めていた。

テレビで見た憧れの選手たちが、筑波のユニフォームを着て躍動していた光景が忘れられなかった。
「あの舞台に立ちたい」
「自分のすべてをぶつけてみたい」
そんな思いで、受験を決意した。

筑波大学・体育専門学群の試験は、一般的な大学受験とは大きく異なる3つの構成だった。


【1】センター試験

言うまでもなく、ここが最大の難関だった。
当時は得点率80%以上が合格の目安とされていた。
しかし、自分の高校時代の成績といえば、授業中に弁当を食べ、堂々と睡眠にあてていたようなもの。
まじめに受けたテストでも得点率はせいぜい50%程度
この時点で合格圏にはほど遠く、「筑波?無理に決まってる」と言われるのも無理はなかった。


【2】スポーツテスト

20種目の中から3つを選び、競技力・運動センス・身体操作能力など、幅広い適性が試される。

自分は迷わず、

  • バスケットボール
  • 100m走(陸上)
  • バドミントン

の3つを選択した。
バスケは自分の専門。100mは部活での走り込みで鍛えていたし、バドミントンはたまたま体育の授業でコツを掴めていた。

「オールラウンドに運動できる人間」かどうかを見られる試験。
単なる運動神経の良さではなく、判断力・瞬発力・応用力まで求められる。
ただ、自分にとってはむしろ、この試験が一番楽しみだった。バスケと似た「実戦形式」がそこにあったからだ。


【3】論文試験

体育・保健に関するテーマで、指定時間内に小論文を仕上げる。
過去問を見る限り、大きく傾向が変わることはなかったので、数パターンの予想問題を想定して繰り返し書いて復習する作戦をとった。

体育理論・健康教育・スポーツの意義などについて、自分の考えを文章にまとめる。
決して得意ではなかったが、「型」と「経験」を積み重ねていけば、点は取れると信じていた。


最大の敵──センター試験

問題は、やはりセンター試験だった。
高校ではバスケ中心の生活で、受験勉強はほぼゼロ。塾にも通ったことがない。
強いて言えば、景品欲しさに始めた進研ゼミだけが頼りだった。
だが、奇跡的にOB情報から、筑波大の出題傾向や対策についてはある程度つかむことができた。

合格までの時間は、半年しかなかった。

でも、恐怖と同時に、なぜか自分の中には変な自信があった。
あの中学時代、1畳の物置のような部屋で、死ぬ気で立川高校合格を目指して努力した日々を思い出した。

「バスケと同じだ。ひとつひとつ課題をクリアしていけば、必ず近づける。」

そう信じて、仮想敵を設定するように、教科ごとに目標と計画を立てた。
「英語はこのパターンの問題を繰り返す」
「数学はとにかく基本の公式を“反射的に”使えるようにする」
“ゲーム感覚”に近い集中の仕方で、毎日机に向かうようになった。

最初は解けなかった問題も、少しずつ正解できるようになってくる。
その手応えが、どんどん自分を前に進めてくれた。

“わかる”という感覚は、バスケで“入る”という感覚に似ていた。

やればやるだけ成果が出ることに、むしろ楽しさすら感じ始めていた。

受験直前の模試では、なんと得点率80%超えを叩き出した。
先生にも、親にも驚かれた。
「奇跡か?」と言われたが、自分の中では「必然」だった。

周囲は最後まで「筑波なんて無理だよ」と言っていた。
でも、自分は耳を貸さなかった。
根拠はなかったけれど、「自分はやれる」と本気で思っていた。


そして、センター試験当日。

あの朝の空気は、今でも忘れない。
冷たい空気。
緊張で張り詰めた手。
でも、どこか落ち着いていた。

まるで、試合のスタメン発表を待っているような感覚だった。

準備はしてきた。
あとは、自分を信じて“シュートを打つ”だけ。

いよいよ、自分の人生を懸けた本番が始まった──

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この記事を書いた人

石川信孝
茨城で建設会社を経営しています
工具はマイナスドライバー1本しか持っていません

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