「29歳、春の決断」
29歳の春。
自分は、会社を退職するという選択をした。
あれだけ情熱を注いで築き上げた場所。
ゼロから立ち上げ、2年で黒字化し、社員も15人を超えるまでに成長させた会社だった。
なのに、自分はその場所を去ることにした。
若さゆえの衝動だったのかもしれない。
あるいは、自分の持って生まれた性格だったのかもしれない。
今となっては正直わからない。
ただ、あのときの自分には「残る」という選択肢が見えてこなかった。
いや、見ようとしていなかったのかもしれない。
もしかしたら、格好をつけたかっただけかもしれない。
正義感を盾に、責任から逃げたかっただけなのかもしれない。
見栄を張って、自分を守りたかったのかもしれない。
それでも、自分は「これは間違っていない」と、何度も何度も自分に言い聞かせていた。
そうしなければ前に進めなかった。
後ろを振り返る余裕なんてなかった。
ありがたいことに、最終出勤日には多くの人が会社に顔を出してくれた。
花束を持って駆けつけてくれた取引先の方々もいた。
社員たちは、セクハラ事件の当事者を除いて、みんな泣いてくれた。
「ありがとうございました」
「寂しいです」
そんな言葉を何度も何度もかけてもらった。
本音を言えば、涙が出そうだった。
だけど、それを見せるわけにはいかなかった。
だって、自分で選んだ“退職”という道なのだから。
もちろん思い入れがなかったわけじゃない。
会社には愛着もあったし、一緒に苦労してきた仲間との絆も確かにあった。
自分が信じる理念に共感してくれたメンバーと、一緒に未来を描けていたことは本当に幸せだった。
でも、あのセクハラ事件を境に、何かが大きく壊れてしまった。
正しさを貫くことで組織が揺らぐなら、自分が離れるしかない。
誰かが泣き寝入りして、その上に成り立つ組織なんて、自分には受け入れられなかった。
次の仕事なんて何も決まっていなかった。
将来への不安も当然あった。
30歳を目前に、貯金も限られた中で無職になる決断は、世間的に見れば“無謀”だっただろう。
でも、それでも、自分の中では「正しい」と信じた選択だった。
たとえそれが世間的にどう評価されようと、自分だけは自分を裏切りたくなかった。
ある社員からは、こう言われたこともある。
「部長、見捨てるんですね」
その言葉が胸に突き刺さった。
だけど、見捨てたつもりなんて一切なかった。
むしろ、守れなかったという悔しさがずっと心の奥に残っていた。
あの時、自分が会社に残ってNo2と一緒に働き続けていたとしたら、きっとどこかで自分を嫌いになっていたと思う。
だから、選んだ。
辞めるという決断を。
新しい道はまだ見えない。
でも、また一歩ずつ進んでいくしかない。
それが、自分にできる唯一の“けじめ”だった。
会社を離れた春。
舞い散る桜の花びらを見上げながら、心の中ではしっかりと誓った。
「この経験は、必ず意味のあるものにする」
そうやって、新たな物語がまた始まっていくのだった。

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