自分が育ったのは、北海道のとある海沿いの町。
街の喧騒とは無縁の、自然に囲まれた静かな環境で、四季の変化を肌で感じながら過ごした幼少期でした。
春は桜というよりも冷たい潮風。夏は短く、秋はあっという間に過ぎ、冬は一面真っ白な世界。そんな環境の中で育った僕には、今でも色濃く残っている風景がいくつもあります。
当時の家は、決して裕福とは言えないボロ家でした。
今のような便利さとはほど遠く、なんとお風呂がなかったんです。
だから、毎日のように母と姉と3人で、歩いて30分ほどの場所にある昔ながらの銭湯へ通っていました。
冬になると、雪が降りしきる中を傘をさして銭湯に向かいます。
あの銭湯の煙突から立ちのぼる湯気を見ると、何とも言えない安心感があったものです。
中に入れば、ほっとする暖かさと、少し古びた木の香り。広い浴槽に足を入れた瞬間、冷え切った体がじわっと溶けていく感覚が今でも忘れられません。
でも、帰り道はいつも大変でした。
温まった身体が、また冷たい空気にさらされる。
湯冷めしないようにとタオルを頭に巻いて、できるだけ早足で家まで帰る。
でも、家に着く頃にはすっかり体が冷えてしまっている。
それでも、そんな日々がなぜか心の中では温かく、懐かしく感じます。
幼稚園はキリスト教系の園に通っていました。
毎朝お祈りをして、聖書の言葉に触れながら過ごす日々。
園長先生はとても素晴らしい方で、何十人もいる園児たち全員の名前をしっかりと覚えてくれていました。
子どもながらに、「自分の名前を呼んでもらえる」ということが、こんなにも嬉しいものなのかと、今でもそのときの気持ちを覚えています。
たったそれだけのことが、当時の僕にとっては「自分もちゃんとここにいるんだ」と感じさせてくれる大事な出来事だったのです。
そして、小学校に入るころには、僕の中に少しずつ「自分は他の人と違うのかもしれない」という意識が芽生え始めました。
というのも、僕には頭に火傷の跡がありました。
その見た目が原因で、周囲の子どもたちからは色々な反応を受けることがありました。
幸い、当時の先生がとても理解のある方で、直接的ないじめのようなものはなかったと思います。
でも、「かわいそうだね」と言われたり、興味本位の目で見られたりすることが、子どもながらに強い違和感として残っていました。
言葉にできないモヤモヤとした感情。それをどう処理していいかわからないまま、ただただ「自分は普通じゃないのかもしれない」と思うようになっていきました。
そんな感覚は、子どもの頃の僕にとっては重く、でもどうすることもできないものでした。
普通になりたくて、でも普通ってなんだろうと、ずっと自分の中で問い続けていた気がします。
いま振り返ってみると、こうした環境や体験が、今の自分を形作る大事な要素になっていることに気づきます。
自然に囲まれていたからこそ感じられた季節の匂いや風の音、銭湯で得た人との触れ合い、そして少し違った自分をどう受け止めるかを考え続けた日々。
すべてが、自分の原点なんだと思います。

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