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起業物語Re4  生い立ち

北海道からフェリーで海を渡り、たどり着いた東京。
自分たち家族が最初に暮らした場所は、東京都昭島市だった。
父が勤める会社が用意してくれた社宅のようなアパートで、築年数が古く、狭くて窮屈だったが、当時の自分にはそれが東京の「新しい生活」のすべてだった。

アパートには、台所を含めてたった3部屋しかなかった。
そんな限られた空間に、両親と自分、そして姉2人、さらに猫が4匹。思い返せば、本当に賑やかで、そして貧しかった。

部屋割りは自然と決まり、父は台所に布団を敷いて寝ていた。
母と自分がひとつの部屋、姉2人がもうひとつの部屋。中学生になる頃まで、そんな家族全員がぎゅうぎゅうに詰め込まれた生活が続いた。

北海道からは猫たちも一緒に連れてきた。今でいう“多頭飼育”に近い状況で、家中が猫たちのひっかき傷でいっぱいだった。
ドアの下の方はいつも爪痕だらけで、床には毛が舞い、餌の食器はいつも4つ並んでいた。猫たちは元気いっぱいで、まるでこの家に貧しさがあることなんて気にもしていないようだった。

そんなにぎやかな家庭環境の中、自分は新しい小学校に転入することになった。
北海道から来たばかりということもあり、話し方にはなまりが残っていたし、頭にある火傷の跡も相まって、転入初日から目立つ存在になっていた。

でも、不思議とクラスにはすんなりなじめた。
その理由は、自分ではっきりとはわからないが、今振り返って思うのは、母の存在が大きかったのではないかということ。

母は、どんなときでも明るかった。
貧乏だとか、台所で父が寝ているだとか、猫たちの騒がしさだとか、そんなことに一切文句を言わず、笑いながら日々を過ごしていた。
それが子どもながらに不思議であり、同時に安心感でもあった。

学校では、火傷のことをからかわれることも何度かあった。
素直に傷ついて、家で母に相談するたびに、母はこう言っていた。

「そんなの、明るく笑って返しなさい。気にしてるって思わせたら、相手の思うつぼだよ。」

今思えば、それは子どもにとっては少しハードな言葉かもしれない。
でも、母が心のどこかで自分の強さを信じていたからこそ言ってくれたのだと思う。
おかげで深く落ち込むこともなく、自分なりに前を向いて過ごすことができた。

後に知った話だが、父は当時、自分のダンプカー購入のためにローンを抱えていて、家には月11万円しか入れていなかったらしい。
それで家族5人と猫4匹が生活していたのだから、相当なやりくりが必要だったはずだ。
冷静に考えれば「絵に描いたような貧乏生活」だった。

それでも、母は一度も「お金がない」と子どもたちに言わなかった。
台所でご飯を作るときも、夕飯の材料が少ない日も、いつも「今日は○○風ごはんだよ!」と、楽しそうに工夫して出してくれた。

最近になって、母と昔話をする機会があった。
あの頃、どうしてあんなに明るくいられたのかと聞いたところ、母は少し間をおいて、ぽつりとこう言った。

「子どもたちがいたから、頑張れたんだよ。」

その言葉を聞いたとき、自分の胸にじんわりと何かが染み込むのを感じた。
きっと母は、自分が思っていた以上に大変で、きつくて、苦しかったはずなのに、決してそれを見せなかった。
「明るくいなきゃ」と、自分に言い聞かせながら、家族を支えてくれていたのだろう。

自分の性格は、間違いなく母の影響を受けている。
嫌なことがあっても、できるだけ笑って返す。
誰かが困っていたら、軽口を叩きながら手を差し伸べる。
それは、母から自然と受け継いだ生き方だと思う。

あの昭島のアパートでの生活は、決して裕福ではなかった。
けれど、そこには笑いがあり、猫たちの声があり、母の強さがあった。

あの場所から、自分の“東京人生”は始まった。

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この記事を書いた人

石川信孝
茨城で建設会社を経営しています
工具はマイナスドライバー1本しか持っていません

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