小論文と田中くん──試験会場で起きた、あまりにも静かで衝撃的な事件
センター試験、スポーツテストを乗り越え、いよいよ最後の関門――小論文試験。
試験会場は、筑波大学の巨大な講義室だった。
200名規模の広々とした空間に、受験生が一斉に並び、前方と後方には複数の試験官。
まるで国会中継のような静けさと緊張感が漂っていた。
試験内容は明確には覚えていない。
だが、おそらく保健体育に関連した論述だったはずだ。
進研ゼミで見た過去問の傾向と一致しており、想定していたテーマのひとつだった。
「これは、書ける」
そう思えた瞬間、心の中でほんのわずかに肩の力が抜けた。
書く、ということに全力を注いだ
論述は得意ではなかったが、苦手意識がまったくなかったわけでもない。
「読みやすさ」を意識して、段落構成、接続詞、論理展開を丁寧に整えること。
そして、テーマの中に自分の主義主張をどう折り込むか。
自分の文章は“硬派”でも“知的”でもない。
ただ、自分の目線で、自分の言葉で、正直に書くことだけは心がけた。
手応えとしては「まあまあ」。
「これ以上は出せない」というほどではないが、準備した型に沿って書ききった満足感があった。
試験時間はたしか120分だったと記憶しているが、自分は80分ほどで書き終えた。
残りの時間は、誤字脱字のチェック。
小さなところでも減点対象になると聞いていたから、最後まで気は抜かなかった。
そして、試験終了を告げるブザーが鳴った。
「はい、試験終了です。鉛筆を置いてください」
その瞬間、自分はスッと鉛筆を置き、答案用紙の上に手を重ねた。
どこか安堵した気持ちで周囲を見渡すと、すぐ斜め前の受験生――ひとりだけ、明らかに動き続けている男がいた。
彼は、試験終了の合図を完全に無視し、必死に答案に何かを書き続けていた。
焦っているのか、追い込まれているのか、あるいは最後の一行にかけていたのか。
その姿を見て、自分は軽く思った。
「いやいや、もう終わってんのに、必死やな…」
しかし、その数秒後、空気が一変する。
「不正とみなします!!」
教室の後方から勢いよく鳴り響く足音。
そして、教室中に響き渡るような大声。
「不正とみなします!!」
声の主は、試験官。
あまりの迫力に、一瞬場の空気が凍った。
その声は、前方で粘り続けていた彼――**田中くん(仮名)**に向けられたものだった。
まさか、本当に不正として処理されるとは思っていなかった。
自分の中では、「終了後にちょっと粘るくらいはグレーゾーンで許される」くらいに考えていた。
でも、大学はそんなに甘くなかった。
試験官2名が前に駆け寄り、彼の答案用紙をその場で奪取。
そして、そのまま両腕をつかまれ、引っ張られるように別室へと連れていかれた。
彼は、抵抗することもなければ、弁明する様子もなかった。
ただ、うなだれたまま、涙目で、遠くを見ていた。
田中くん、やっちゃったな
教室はざわついた。
「え、マジ?」「やりすぎじゃない?」「あれアウトなんだ…」
そんな小声があちこちで飛び交う中、試験官は冷静かつ無感情にこう言った。
「それでは答案用紙を回収します。」
何事もなかったかのように、用紙を一枚ずつ回収し始めた。
その時、自分の横の受験生が、ぽつりと小声で言った。
「田中~…やっちゃったな…」
不正をした受験生と横の受験生は知り合い、もしくは同じ高校だったのかもしれない。
誰も笑っていなかった。
誰もツッコまなかった。
全員、あの出来事の重さを理解していたからだ。
その後、田中くんを見かけることはなかった
小論文試験の帰り道、自分の頭にはあの光景がずっと残っていた。
「あれって、ほんとに不正?」「1分の延長って、そんなに重いことだったんだろうか?」
いろんな感情が混ざっていた。
大学受験の世界は、想像以上にシビアだった。
あの日以来、筑波大学のキャンパスで田中くんを見かけることはなかった。
彼はきっと、不合格どころでは済まされなかったのだろう。
「受験資格喪失」――たった数行の延長記入で、そう判断される世界。
本当に一発勝負、ルールに支配された戦場だった。
あの静寂と衝撃は、今でも忘れない
小論文試験の日。
自分が印象に残っているのは、書ききった達成感ではない。
最後の1行をめぐって**「人生が変わってしまった」ひとりの男の背中**だった。
あれを見て、「最後までルールを守ること」がどれほど大切かを、身をもって学んだ。
そしてそれは、大学受験だけでなく、この先の人生すべてに通じる教訓だったのかもしれない。
ああ田中くんよ 君はいまどうしてる?

コメント